真幸土木の歩み

私たち真幸土木は「街づくり、人づくり、幸せづくり」をモットーに、さらなるレベルアップを目指して快適な街づくりに携わってまいります。
高度経済成長黎明期から土木に携わってきた初代が真幸土木を設立してからの企業物語をご紹介します。

想定外の起業

復興シンボルで基礎工事

創業者の片寄幸男氏=1976年ごろ

戦後の復興シンボルとして、東京都民はもちろん日本中で親しまれてきた「東京タワー」。
1958(昭和33)年の完成当時はパリのエッフェル塔をしのぐ世界一の高さを誇り、現在も東京スカイツリーに次いで日本で2番目に高い建造物だ。総工費約30億円をかけた壮大なプロジェクトには、全国各地から優秀な技術者らが集められ、関わった作業員数は延べ22万人にも上ったという。創業者の片寄幸男もその一人だった。

雲南市三刀屋町に生まれた幸男は上京し、建設会社に勤務。敗戦後、占領下の経済活動の荒廃や混乱を経て、日本が早くも高度経済成長期に突入し始めた頃だった。インフラ整備が急速に進み、活気あふれる都心で幸男が担った業務の一つが東京タワーの基礎工事だった。

4千トンの重さと90メートルの風速に耐えられる構造を持ち、築60年以上経過した今も、東日本大震災級の地震でも揺るがないほど高水準の技術が駆使された建造物。世界トップレベルの高い技術に触れ、経験を積んだ幸男は、東京タワーが完成した年に帰郷し、松江の建設会社に勤め始めた。

技術力とリーダーシップ

社員の説明を受け、BIM/CIMモデルを見ながら現場の状況を確認する片寄敏朗社長(左)=松江市古志原6、真幸土木本社

翌59(同34)年に所帯を構え、翌年には3代目で現社長の長男敏朗(62)を授かるなど順調に過ぎていた日常は76(同51)年に一転する。勤務先の会社が倒産したのだ。妻が他社で働いていたとはいえ、育ち盛りの子どもを3人抱え、路頭に迷っている場合ではなかった。

創業当時の工事写真=1976年ごろ

一方、当時現場責任者だった幸男は技術力とリーダーシップを兼ね備えており、同僚らから慕われていた。彼らに背中を押されるような形で同年、新たな会社を創業することになった。真幸土木が産声を上げた瞬間だった。

想定外の開業であり、潤沢な資金があったわけではない。借家を事務所にし、金融機関から融資を受けて建設用機械や車両なども一からそろえた。当時高校生だった敏朗は、「建設業界は通常、工事が完成するまで収入がありませんが、人件費や物品費などの運転資金は常時必要。金銭的余裕のない創業当時、経理担当者は毎月のように金融機関に通って資金繰りを相談するなど、かなり苦労したようです。母からは家にお金が入らない時期もあったと聞いています」と振り返る。

働き方改革どころか、〝モーレツ社員〞全盛の時代、日曜日ですら家で幸男の姿を見ることはほとんどなかった。「工期が迫ると土日祝日も関係ありません。自分が経営する立場になって初めて当時の父の苦労が分かりました」

高度経済成長で業績向上

創業当時に行われた会社主催の花見。左後方の白シャツ姿が初代片寄幸男氏=1976年4月

しかし経済成長の波は依然続いており、公共事業や民間の宅地造成など建設業界が好況だったため、旧知の取引先からの受注や大手ゼネコンの下請けなどを通じて業績は徐々に上向いていった。

施工管理技術者を中途採用した80年代半ばくらいからは元請け工事も施工し始め、利益率が向上。新しく迎えた顧問税理士の下で、89(平成元)年からは1カ月単位で決算を行う月次管理を始め、財政健全化を実現していった。バブル期に入るとますます建設業界は潤い、数人でスタートした真幸土木も従業員40人を抱えるほどになっていた。

そして92(同4)年、父の背中を見て育ってきた長男敏朗が入社。大手ゼネコンで10年間、数々の得難い経験を重ね、高い知識と技術を身に付けてきた若者は、自社のさらなるレベルアップに大きく貢献することになる。

10年の節目に帰郷

初代片寄幸男氏と現社長の片寄敏朗氏(左)=1990年代

世界トップレベルの技術力で建造され、当時はエッフェル塔をしのぐ世界一の高さを誇った東京タワー。その基礎工事にも従事するなど、都心で高い土木技術を身に付けた片寄幸男が帰郷後に立ち上げた㈱真幸土木(松江市古志原6丁目、片寄敏朗社長)は、高度経済成長やバブルの波にも乗り、大きく成長していった。一方、後継を目される長男敏朗(62)は大学で専門知識を学んだ後、大阪のゼネコンに就職。多彩な現場で得難い経験を積み重ねていった。

父と同じ土木業界へ

ゼネコン入社時の片寄敏朗社長=1982年ごろ

長男で、下に妹が2人いる敏朗はいつの頃からか、自分が家業を継ぐことが念頭にあった。「父には一度も『継いでほしい』と言われたことはありません。ただ親戚など周囲から期待を感じていたことや、自分自身ものづくりが好きだったこと、そして何より父が同僚に慕われながら仕事に打ち込む姿に憧れや格好良さを感じていたのかもしれません」。創業後、仕事が軌道に乗り始めると幸男は毎年、社有する小型マイクロバスで社員と出雲大社まで初詣に出向き、帰り は自宅に招いて新年会を開いていた。幸男と社員らが醸す一体感のある雰囲気は、子どもだった敏朗にまぶしく感じられた。

若い時に経験を積む重要さを実感した敏朗。現在、地元高校の委託を受け、社員らによる測量実習も積極的に行っている=松江市乃木福富町、松江農林高校

創業当初の経営苦を肌で感じていた敏朗は、家計への負担を考慮し、工業高校で土木を学んですぐに就職するつもりだった。大学進学に進路を変更したきっかけは幸男の言葉だった。「これからの時代は大学に行った方がいい。進路は時間をかけて決めればいい」国立大工学部に進学後は常に最前列で授業を受け、同級生の半分近くが4年間で必要単位を取得できないほどハードなカリキュラムの中、ストレートで卒業。ゼネコンへの就職を決めた。この時も、相談した幸男の言葉が影響した。「10年間は他社で仕事を経験すべき。跡を継ぐなどということは一人前になってから考えればいい」。そうして敏朗が選んだのが、大阪に本社があり、松江でも実績を誇るゼネコン、鴻池組だった。

国家プロジェクトに参画

ゼネコン時代、敏朗が参画した石油備蓄基地建設の国家プロジェクト。地下65メートルの岩盤タンクを作る大深度大断面トンネル工事は過去に例がなかった=1989年、愛媛県で

国内外で大規模な建築・土木工事を担ってきたゼネコンの仕事は、若く意欲あふれる敏朗を刺激した。そして短期間に密度の濃い経験と技術力を獲得していった。専用ソフトやCAD(コンピューター支援設計)などがない時代は、プログラミングした携帯用小型コンピューターで構造計算や測量計算を行い、手書きで図面を作成。技術革新が目覚ましかった時代、最新鋭の設備も次々と導入され、機械の能力を生かしつつ業務に励んだ。

工事部の社員と打ち合わせをする片寄敏朗社長(右奥)

新人にも積極的に仕事を任せる社風の中、入社3年目の1985(昭和60)年には阪神高速道路の橋梁下部工を施工。現場は車両が通行する一般道路の上空という難しい条件で、全国的にも施工例が少ない案件だったが無事完成し、大きな自信にもつながった。89(平成元)年には、地下岩盤内に空洞を設け、水圧などで貯蔵原油を封じ込める石油備蓄基地建設の国家プロジェクトに参画。地下65メートルに150万キロリットルの石油を備蓄するという壮大な事業は国内ではほぼ初めての施工例で、現場で技術者らが知恵を絞り合って課題を解決していった。自らの経験と知識をフル稼働して仲間と共に課題に立ち向かうことは、技術者としての敏朗を大きく育て上げていった。

引き継ぎ経て円満に退職

一方で、入社10年という節目も迫っていた。幸男の体調が思わしくないことや転勤が多い状況を踏まえて人生設計を考えると、当初の予定通り帰郷する選択肢が最適に思えた。長男の小学校入学のタイミングにも合う。10 年目の春に上司に意向を伝え、1年間の引き継ぎなどを経て、円満に退職。故郷に戻り、父が率いる会社の門をたたいた。

大阪のゼネコンでさまざまな土木事業の経験を積み重ね、時には現場責任者として予算管理なども担ってきた敏朗。シビアな世界を見てきた目には、地方の会社が抱える課題が次々と映った。自社のレベルアップを図るべく、入社間もなくから業務改善に向け力を注ぎ始める。

社内環境整備

初代片寄幸男氏(右)の急逝に伴い、2代目社長に就任した池田利夫氏=1990年

高度経済成長期からバブル期にかけ、下水道工事や民間の宅地造成などで地域のインフラ整備に大きく寄与してきた㈱真幸土木(松江市古志原6丁目、片寄敏朗社長)。大阪のゼネコンで10年間経験を積んだ創業者の長男敏朗(62)が1992(平成4)年に帰郷すると、さらなるレベルアップを積極的に図っていった。

全ての書類の書式を統一

片寄幸男社長のリーダーシップの下、業績を拡大してきた会社も創立15周年を越え、成熟期を迎えつつあった。そんな中、ゼネコン業界から転身した敏朗が真っ先に取り組んだのがパソコンの導入だった。現場管理者に1人1台供与し、全ての書類の書式を統一。松江市内の業界でも先駆け的なシステム整備で、業務時間は著しく短縮され、効率化や標準化が図られた。さらに安全講習会や安全パトロールを定期的に行うようにし、労働安全にも注力した。

真幸土木本社前に立つ片寄敏朗社長=松江市古志原6丁目

技術面では最新工法を積極的に取り入れた。松江市内で初めて、低振動低騒音を実現する超高周波パルソニック工法バックホウ装着油圧式バイブロハンマーを導入。騒音や振動の規制がある市街地の下水道工事などで特に歓迎され、環境に対する地域や業界の意識向上にもつながっていった。

続いて力を入れたのが人材育成だ。敏朗が入社した当時、20歳代の社員は一人もおらず、30歳代も36歳の敏朗を含めて数人、主軸を担っていたのは60歳代以上だった。しかし、採用を進めてもなかなか定着せず、社内でチームワークが図れない日々が続いた。そんな中、会社の大黒柱を担ってきた幸男が98(同10)年、闘病生活を経て65歳の生涯を閉じた。

早すぎた創業者の死

片寄敏朗氏がゼネコンからUターン後に注力した安全講習=1992年

二度の大きな手術を経験し、亡くなる3年前からは入退院を繰り返していた幸男。敏朗や、専務の池田利夫が毎日のように病院に通って会社の状況を報告していたが、のちに担当医から告げられた余命宣告を本人に伝えることはできなかった。今ほど本人告知が浸透していなかった時代。本人のダメージや会社の信用を考えると、現役社長の病態をつまびらかにすることはためらわれ、幸男からの引き継ぎや他人への相談もままならぬまま数カ月が過ぎた。

真幸土木が無電柱化工事を施工した国道432号=松江市大庭町、2021年

「包容力とリーダーシップがあり、野武士を率いる頭領のような存在」と父親を評する敏朗。屋台骨を失い、会社に求められるのは内外共に体制の強化だった。次期社長に敏朗をとの声もある中、経営経験のない自らの立場を踏まえ、自身は専務になって社内の環境整備を進めることとし、2代目社長には創業時から幸男の右腕として厚い信頼を得ていた当時の専務の池田が就いた。「創業者を失い、会社が大変な時。池田前社長に頑張っていただいたからこそ今がある。感謝しかないです」。敏朗の言葉に熱がこもった。

自ら新人の〝家庭訪問〟

社員のレクレーションの一環として、1999年から毎年参加する松江市民レガッタ祭=2006年ごろ

専務になった敏朗がまず注力したのは、一度は挫折した人材育成だった。若手を一から育てようと新卒採用に着手。99(同11)年からは、夕食付きで若手向けの勉強会を開催し、社長自ら新入社員の自宅を訪れる〝家庭訪問〞をスタートさせた。知識や技術面に加え、精神面でのフォローも細やかに行い、じっくりと新人を育てていった。

若手の育成には、家庭だけでなく社員全員をも巻き込んだ。「先輩が愛情を持って接していれば、若手も付いてくる。後輩を育てるのも仕事の一部、という意識を持ってもらうよう心掛けました」。社内交流が活発になるよう積極的にレクレーション活動や懇親会を企画。飲み会や社員旅行では自身が常に幹事を務め、裏方となって社員を盛り上げた。

「近年、〝昭和体質〞な会社は敬遠されがちです。でも中小企業では、家族経営的な雰囲気がもたらす一体感が大事な部分だと思うのです」。そんなやり方が功を奏したのか、過去8年間に新卒16人を採用しながらも2023(令和5)年まで離職者ゼロを継続している。飲み会や社員旅行の参加率も9割を誇る。

00(平成12)年には初めて、大学卒の新人が入社。バブル崩壊の影響もあり、ゼネコンのベテラン技術者を雇い入れることにも成功し、社員全体がレベルアップしていった。同時に敏朗自身も、京セラの創業者、稲盛和夫が始めた経営塾に入塾し、偉大な経営者からじかに薫陶を受けるなど、ブラッシュアップに力を注いだ。しかし同年度、敏朗の入社以来初めて赤字決算を出してしまった。

健康経営

新社屋にできたカフェのような雰囲気のコミュニケーションスペースでくつろぐ社員たち

地域のインフラ整備に大きく貢献してきた真幸土木(松江市古志原6丁目、片寄敏朗社長)。初代の片寄幸男亡き後も、創業以来社長を支えてきた社員と、ゼネコンで経験を積んで帰郷した長男敏朗(62)がタッグを組んで人々の暮らしを豊かにしてきた。そんな中、順調に業績を上げてきた会社に相次いで衝撃が走った。

初めて赤字決算を計上

パソコンでの業務を行う片寄敏朗社長=松江市古志原6丁目、真幸土木本社

2000(平成12)年度、敏朗入社後で初めて赤字決算を計上。要因を分析して浮かび上がったのは、原価意識の低下だった。敏朗は「売上は前年度と同程度ありましたが、細やかな管理が現場で行き届いていませんでした」と振り返る。

翌年には、下請け工事でコンクリート品質不良工事が発生。現場任せで本社のフォローが不足していたのが原因だった。続けざまに起きたピンチ。しかし敏朗は会社変革の好機と捉え、徹底した経営改革に取り組むと同時に、改めて良質な施工法の細かい検討を重ねていった。

当時、建設業冬の時代で経営環境が厳しく、地元建設会社もリストラをする中、社員のモチベーションを低下させまいと、賃金カットやボーナスカットは全く行わなかった。以後、赤字もクレームを伴う重大不良工事も一切発生していない。

経産省「優良法人」に認定

ベテラン社員が製作した作業手順動画を見る若手社員

健康経営にも優先的に取り組んだ。現役で他界した初代幸男はヘビースモーカーで、敏朗には健康の大切さが身に染みていた。03(同15)年から、病院の支援を受けながら全社員の「こころと体の健康づくり」(THP)を実施。健康診断を経て、医師や栄養士、保健師らによる個別面談を行い、運動・栄養指導、メンタルヘルスケアにつなげていった。

健康に害の大きいタバコ対策も積極的に行った。当時の喫煙率は約70%。社員に理解を求めながら徐々に受動喫煙対策を進め、病院や学校などの敷地内全面禁煙が法制化された19(令和元)年より13年も早い06(平成 18)年には会社敷地内を全面禁煙とした。同年からは、喫煙者全員を対象にした禁煙チャレンジも随時スタート。専門医の講演などを重ねるとともに、禁煙外来の治療費は全額会社が負担するなどして、社員をフォローした。

ユニークなのは、禁煙に当人だけでなく、社員全員を巻き込んでいった点だ。3カ月間全員禁煙すれば、全社員に報奨金を出すチャレンジを設定したり、従来からタバコを吸わない人も含め、禁煙者全員に健康手当の支給を始めたりした。禁煙成功者の声や健康情報を伝える取り組みも地道に続け、喫煙率は5%にまで低下。「いくら嫌な顔をされても言い続け、喫煙者ゼロになるまでチャレンジします。社員の健康を願う一心です」と笑う敏朗。17(同29)年からスタートした経済産業省「健康経営優良法人」には初年度から毎年認定されている。

県発注工事成績で1位

2012年の国土交通省優良下請企業表彰を受賞。前列左端が片寄敏朗社長

さまざまな取り組みは、少しずつ実を結んでいった。敏朗が3代目社長に就任して5年目の09(同21)年、初めて国土交通省優良下請企業表彰を受賞。その3年後には島根県優良工事知事表彰も受けるなど、下請けと元請けの両方で高く評価され、近年各種受賞が相次いでいる。

敏朗は「元請けが取れるようになると管理型に移行した方が利益率は上げやすいかもしれない。しかし、下請け工事も行うからこそ現場の細かい作業や手順も分かる。仕事のノウハウが詰まっている現場も担えるのは、弊社の強み」と胸を張る。19〜20年度には、島根県発注工事成績ランキングで初の1位を獲得。地場ゼネコン各社を抑えての快挙となった。

また、22(令和4)年には品質管理部を新設し、QC活動や工事担当者の教育・指導に注力している。

現場で活躍するマシンコントロール機能搭載のICTバックホウ

ICT施工も積極的に導入し、19(同元)年には県発注の舗装工事として初めて行ったほか、一昨年には県内初の市街地小規模土工事ICTを実施。3次元の電子データを利活用した生産方式「BIM/CIM」も取り入れている。そして、それらを使いこなす社員の資質向上も進んでいる。

ベテラン社員が自ら現場の作業内容を撮影して動画で新人に手順を伝えたり、資格取得を目指す若手に先輩社員が3カ月間マンツーマンで教えたりすることで教育効果がアップ。資格試験に合格した暁には、受験者本人に手当が付くだけでなく、講師役にも報奨金がもらえるとあって合格率は格段に向上した。工事部では、敏朗の長男片寄幸一朗(36)もゼネコンで積んできた経験を生かし、汗を流している。

22(同4)年、新社屋を竣工。全社員からの要望を取りまとめ、コミュニケーションエリアの新設や効率的な動線などを実現した。ぬくもり感と清潔感、風通しの良さに加え、インテリアにもこだわった環境は、社員に好評で働き方改革にもつながった。「健康を守り、人間関係を潤滑にし、働きやすい環境を作ること。それが社長の務めです」

ーおわりー